昨日たまたまLe Mondeのサイトで2007年11月15日のこんな記事を見つけました。先ほどの記事(アラブ人の店員さんから私の子供に日本語を勉強するよう励まされたという話を含む。) を準備しているところだったので胸に響くものがありました。こちらの記事です。 「エリアス・クリー、『私はアラビア語で書く、私はアラブ人だから。』」と題されています。
エリアス・クリーという人は知りませんでしたが、レバノン人の作家でアラビア語で書いた作品を発表しているそうです。Biostarというサイトに紹介のページがありました。作品のリストもあります。そのページはこちら。小説や戯曲の執筆などの文学活動以外にも評論家としても活躍しており、かなり有名な文化人のようです。
以下、記事から抜粋し、翻訳をつけました。(青は原文、緑は拙訳、黒は私です。)
Toutes les langues maternelles sont belles aux yeux de celles et ceux qui les parlent. Elles ont le goût de l’enfance, des expériences révolues et de la mémoire qui précède la mémoire individuelle. Comme ma mère, ma langue aussi je ne l’ai pas choisi ; elle est le souffle qui façonne mon existence.
[拙訳]
すべての母語はそれを話す人にとっては美しい。母語は子供時代の味、過ぎ去った経験、個人的な記憶の前の記憶、の味がする。母と同じく、母語も、私が選んだのではない。母語は私の存在を作り上げる息吹である。
アラビア語から翻訳されたという記事ですが、文がきれいですね。langue(言葉、言語)という単語はフランス語では(アラビア語でも)女性名詞で「彼女」で受けています。これが「お母さん」と重なり、美しいと思いました。
この人の母語、アラビア語については次のように書かれています。
Cette langue, vieille de mille cinq cents ans, doit son renouveau à la magie de l’écriture qui la libère du poids du passé et des limbes du silence. La littérature n’est ni musée ni le cimetière de la langue, mais son corps vivant et ses différents miroirs tissés avec nos mots, nos rêves et notre imagination.
[拙訳]
1500年の歴史を持つこの言語は、その復活を、過去の重さや沈黙の混沌から解き放った書く行為の魔法に負っている。文学は、博物館でも言語の墓場でもなく、言語の生きた肉体であり、我々の言葉、夢、想像が織り成す様々な鏡である。
紛争などを繰り返している地域の方ですから、歴史の中で母語を捉えるのでしょうか。今もこの言語があるのは、文学のおかげだ、ということでしょうか。確かに、書いた言葉は残りますからね。でもそれが博物館に入る死語のようになるのではなくて、現在の私たちの夢や生活から出来ているのだ、ということですね。
言葉そのものと文学を愛する人の言葉だと思います。そしてこの記事の最後は作家らしい一言で結ばれています。
J’écris la langue arabe que parlent mes héros ; j’écris comme ils parlent et vivent car ils parlent et vivent comme j’écris.
[拙訳]
私は、私の主人公たちが話すアラビア語で書く。私は彼らが話し、生きるように書く、なぜなら彼らは私が書くように話し、生きるからだ。
上にも書いたように、この作家については恥ずかしながら名前も知りませんでした。でもこの記事をたまたま読んだのをきっかけに少し調べてみましたら、「壊れる前に・・・」というブログに下の小説が面白いという噂が記されていたので興味を持ちました。
うれしいことに仏語訳La Porte du soleilも出ているようです。
Author:まゆの
フランスに住み始めて早16年。フランス語に限らず語学や語学学習にはいつも関心を持っています。フランス生活についても、個人的な視点で書いていこうと思っています。家族はフランス人の夫プー、長女のえ(12歳)、長男チッチ(8歳)次女奈々(4歳)の5人、プラス2007年8月23日から飼い始めたうさぎのクッキー。
自分自身に迫るもの、自分自身を作るもの、もしかしたら自分そのものかもしれません。
そう考えるとき、うちの子どもたちの母語はどのようになるんだろう…と思ったり。
少なくとも日本語は甘くは響かないかも(だっておこられるばかりだから。笑)